ましゅうの工作室

ぶどう色な客車の製作記とか

貨物な休日

壬生川の貨物鉄道博物館の開館20周年と、貨物鉄道輸送150周年でイベントやるという事で出掛けてきた。

鉄道利用であれば富田から三岐鉄道という事になるが、関西鉄道の名残を感じようと、素直に近鉄経由ではなく、関西本線経由で赴いた。

名古屋に着いたタイミングでちょうど快速みえが出るタイミングだったので、それに乗ってまずは桑名まで。駅舎はきれいな橋上駅舎になっているが、ホームは煉瓦積みが残っている。

後続の普通列車で富田へ。この富田駅には明治時代の駅舎が残っており、わざわざJR経由を選択した理由である。

改修はされているものの、入口の装飾に明治時代の建築らしさを感じさせる。

他にも年季の入った跨線橋や、古レール組のホーム上屋、ポツポツと留置された貨車など、観察のしどころが多い。

近鉄富田まで歩き三岐鉄道に乗車。2両ながらまずまずの乗車率。台車のコイルバネにシャッフルられながら壬生川を目指す。

壬生川到着後、まずは物販コーナーのIORI工房さんにて、あいさつがてら貨車のキット1両を購入。今後16番で日鉄の貨客車も出るとのこと。

明治の貨車を見て、珊瑚の5500を積んでいることを思い出し、これ幸いと展示車両のピーコックを観察しに行った。

東武博物館では何度か観察している他、壬生川のも以前一度見ている。改めて見てみると発見があるもので、前後で動輪の輪芯の製法が違うのか、スポーク断面が異なっている。

新製時から違う輪芯形状が混在していたとは考えてにくく、どこかで動輪を振り替えたのだろうか。

先ごろクラウドファンディングでの資金調達が成功し、復元中の旧関西鉄道鉄製有蓋貨車も観察。

台枠をのぞき込んでいたところヘルメットをかぶって潜り込んで良いとの事だったので、有難く潜らせていただいた。

興味深いのがこちらの伴板守部分。元々の中梁はバッファの圧縮力を伝達するために斜めに配置されているのが特徴的であるが、伴板守部分は後年の自連交換時に回収されているらしく、元からある梁と微妙に寸法が異なる。元の梁はインチ規格で、伴板部分はメートル法切り替え後と推定しているが、真相や如何に。

台枠に使われた型材には、刻印が残っている部分もある一方で、その保存は付近の腐食部を補修との兼ね合いで難しく処置を検討中などなど、興味深いお話も伺った。

その他、前回訪問時は製作中だったワフ21000の親子写真を撮影して、貨物博物館を後に、一旦西藤原へ。

折り返しの短い時間ながら、駅構内に保存されている機関車を観察してきた。

西藤原からの帰路、保々駅で貨物鉄道150周年ヘッドマーク付きの機関車に遭遇。

東洋電機らしさのある丸みを帯びた車体が好ましく、消化不良の感がある西藤原の保存車観察と併せて再訪したいものである。

くりでんミュージアムを訪ねる

大学祭で帰仙したついでに、くりでんミュージアムでやっている企画展を見に行こうと、若柳に行ってきた。

くりでんこと、くりはら田園鉄道が廃止になった時は中学生だったが、県内という事でたびたび足を運んだものだった。資料館のある若柳は車庫のあったところで、廃止後も何度か訪れており、資料館も今回で3度目。

若柳へは鉄道で行くことが多かったが、今や石越からのバスの本数は少なく、今回は時間を勘案して行きは高速バスを利用。仙台駅前を出たバスは東北道に入り、穀倉地帯を北上し、1時間ほどで若柳に到着した。

目当ての企画展の前に機関車庫や客車庫の常設展示をひと通り見学。廃止前にも車庫内の見学ツアーに参加したことはあったけれど、資料館として整備するにあたって調査されたのか、情報量は格段に増えていた。

車庫は建物として使うために、2棟とも一部新材を使って補修されている。一方で木造貨車のダルマはそのままとしており、“地方私鉄の車庫裏のダルマ”の質感資料にはもってこい。

資料館に戻っていよいよ目当ての企画展、ふたつのED351へ。タイトルのとおり栗原電鉄に2両存在したED351に焦点を当てたものである。後年まで活躍し記録も多い2代目だけではなく、記録の少ない初代についても所蔵する資料を中心に取り上げられているのが印象的だった。

展示資料を網羅した図録も発売されているのも模型趣味者には有り難く、M15の企画展のものと合わせて購入。

続いて道を挟んで向かい側の旧若柳駅へ。現役末期はクリーム色のトタン貼りだったが、公園として整備された際に沢辺駅の材料も使って復元されたとかで、大正時代の建設当時に近い雰囲気に戻されている。

資料館の車庫内にも2両の気動車が保存されているが、こちらの構内にも保存車がある。現役時代の若柳構内には電鉄時代の吊掛電車の廃車体が4,5両ゴロゴロしていたのを思い出す。(写真は廃止間際に駅構内の公開イベントを行ったときの物)

こちらはだいぶ整理されてしまったが、それでも資料館と合わせて10両以上の車両が残っているのは、廃止当時には思いもしなかった。

ひと通り観察を終えたあとは、遅めの昼食をとって、少し早いけれど帰路へ。帰りは石越経由と考えていたものの、丁度良いバスが無く、歩いて行くことにした。

石越−若柳間は廃止前にも一度歩いており(その時も丁度良い列車が無かった)、18年前を思い出しながらの旅路となった。

新緑の試作

5月連休の帰省から戻った後、新緑の美しさを手元に…と思い、葉の表現をいくつか試作をしてみた。

試作した葉が自然光下でどう見えるかを、既製品1種も交えて比較してみたのが、下の写真。

ジオラマにしたときに色合い的に映えるのは、針葉樹を背景にしたときだろうという事で、深緑色の紙にサンプルを貼り付けて撮影している。

さて、各サンプルは左から

①黄色のスポンジをサインペンから取り出したインクで染色

②白のメラミンスポンジを①同様に染色

③透明折り紙の緑色を細かく裁断

④既製品(光栄堂 LA-1201)

の4種類。

①はいつぞやの模型雑誌(多分TMS)で染色のベースには黄色スポンジを染めるのが良いと書いてあったのを思い出して試してみたもの。スポンジはできるだけ目の細かいものを100均で探し、裁断前に染色している。

裁断は水を含ませて凍らせたスポンジを、おろし金ですりおろす方法がツイッターで紹介されていたので真似している。

この方法の場合そこそこの色鮮やかさと透明感が得られる一方、スポンジの目は極細目とまでは行かないのが欠点である。

②はスポンジの目の細かさと、芽吹き初めの白っぽさの表現を意図してメラミンスポンジを染色してみたもの。

こちらは裁断後に染色したためか、やや色にムラが出てしまった。

意図した通り今回の試作の中で、芽吹き初めの雰囲気に最も近いが、あまり色鮮やかな染色には向かなそうである。

③もツイッターで見かけた技法で、100均などで販売されている透明折り紙を葉に用いるもの。

素材が透明なだけあって、日に当たった時の輝きや透明感は申し分ないが、今回のような暗い背景の場合、背景を透過してしまって存在感が薄くなってしまった。

④は製品だけあって見た目の鮮やかさはダントツ。一方で透明感はあまりなく、自然光下で自然な質感を狙うよりは、室内で色彩で目を引くために使うのが効果的と感じた。

一番バランスの取れた①が最有力で、他は表現したいもので使い分ける感じかな…となってきたところでなんとなく失速してしまい、最近まで放置。

8月末にJAMで情景系含めて色々作品を見て刺激を貰ったこともあり、ようやく①の葉で木を1本試作してみた。

幹や枝は針金で大まかな枝ぶりを作って、細かな枝は花を切り落としたかすみ草を接着した、精密な樹木の作り方としてはスタンダードなものである。

樹形はコナラをイメージしたつもりが何となくケヤキっぽい気がするのは仙台生まれの性か。

ドブ漬けできるほどの材料が無い事もあって、少しづつ葉を付けねばならず手間はかかったものの、よい感じの木漏れ日になったと思う。

さて、折角だし何か情景物を作りたいところであるが、冒頭のカットは以前作ったお立ち台の前に木を立てて撮影しただけの簡易的なもの。

小さなジオラマにするか、それともモジュール規格で何か作るか新たな妄想膨らむ。

お盆のあれこれ

鉄道模型メーカのキット製品によって擦り込みを受けたわけではないものの、長期連休は帰省するのが恒例で、今回もGWの帰省に続き、寄り道しながら帰省してきた。とはいえここ数年の社会情勢もあって、お盆の帰省は数年ぶりとなった。

いわゆる帰省ラッシュが首都圏起点の流れが主であることを考えると、首都圏を経由することは得策とは言えない。C51の幻影を追ってC57の走りを見たいという事もあり、今回は関東地方を避けて信越方面へ抜け、会津経由での帰省となった。

お盆前最終日の退勤後、荷物を車に積み込み北上。塩尻で一泊し翌日昼前には阿賀川河畔でSLばんえつ物語を待ち構えていた。

暗めの背景だが、目論見通り真夏の光線にボイラ上部がハイライトされて、形がしっかり出てくれた。細身のボイラに大動輪のライトパシなので、サイドビューが良く映える。(C51なら給水配管が浮き立ってもっと格好良いだろうに)

残雪の残る飯豊連峰を横目に汽車を追って東へ。

定番の場所ながら一ノ戸川橋梁へ行こうかと思ったものの、お盆とあってだいぶ人が多かったので、別の場所へ。

後打ちだけれど、夏らしさは出たと思う(自己満)。

その後は喜多方でラーメンを食べつつ大峠栗子峠経由で宮城へ。

厚樫山の麓を登って宮城県に入ったものの、実家へは直行せず、阿武隈川沿いへ。

逢隈駅付近に残る常磐線の旧線跡を見に行った。

現行線の車窓から垣間見えるトンネル跡は鉄道用地外から様子を伺うのは難しい状態だったものの、用水路を跨いでいた橋台跡は御覧の通り。

帰りも混雑を避けて新潟経由。せっかくなので、荒砥にある明治20年代製の橋梁を見てきた。もとは東海道本線で使われていたものであるが、車両の大型化に伴い架け替えとなり、負荷の軽い地方線に転用された結果当地に架けられたものらしい。

明治20年代当時の車両限界は現在のそれよりも小さいためか。トラス上部の形状が独特なように感じる。

その後宇津峠を越えて新潟へ抜け、高速に乗って帰路へ。

台風接近の中ではあったが、日本海は美しくきらめいていた。

 

山陰への旅(3)

温泉津を出発し向かったのは出雲大社。ベタな観光地ではあるけれど、なんだかんだ訪れたことが無かったのと、近くを走る一畑電車にも乗ったことが無かったのでこの機会にと行ってみることにした。

出雲市駅で一畑電車に乗り換えたのは京王の中古車。オリジナルの塗装に塗り替えられているほか、灯火類にも手が加えられた姿であるが、かえって地方私鉄らしく好ましい。

川跡で乗り換え出雲大社前に到着。

出雲大社前の駅舎はノーマークだったのだが、改札を出ていきなりのアーチ屋根とステンドグラスに圧倒される

一大観光地の玄関口とあって力を入れて建てられたのであろう。教会を連想させるステンドグラスは(宗教は違えど)信仰の場の玄関口に相応しいかもしれない。

外観もちょっとかつての野辺山駅を思わせるような、昭和初期らしいシンプルな線ではあるが、モザイク模様のような瓦葺が良くマッチしている。

ここまで素晴らしい駅舎が見られたならもう十分かなと思ったものの、折角来たし、大社駅前との出会いも出雲大社のご利益かもしれないので、予定通り出雲大社へ。

本殿を垣間見て、木造建築でここまで大きいものが作れるんだなぁ…と思いつつ参拝。

国鉄大社線の大社駅へ行こうかと思ったものの、どうやら改修工事で休業中。そこで予定を繰り上げ、一畑電車出雲大社駅に保存されているデハニ52を見に行くことにした。

シングルルーフながら車内はダブルルーフっぽく仕上げられているのがこの時代の電車らしい。

ひとしきり見終わったところで電車の時間になったので、松江へ。

一畑電車の駅からJRの駅までは2㎞ほどあるが、バスには乗らず、散策がてら歩いてみた。

松江駅出雲そばをすすったあとは、普通列車で米子へ。

米子に来た目的の一つは0,1番ホームの上屋を支える古レールの柱。ただのレールではなく、双頭レールを用いているのが特徴である。

断面が上下で同じであるため、底面で合わせる通常の古レール利用の柱と違い、側面同士で組み合わされている。

米子駅の改札を出て歩くこと10分ほど、次の目的地の公園へ。ここには明治20年製の木造客車が残されている。

改修こそされているものの、英国製の客車が残っているだけで貴重な存在である。

軸箱守が部位で違っており、開き止めが下に湾曲した形状のものと、直線状のものがあったが、前者はどういう意図の形状だろうか。

付近には趣深い近代建築も多く、謎解きがてら涼しい時期に再訪したいものである。



 

 

 

山陰への旅(2)

特急「おき」を降り、乗客迎えに来ていた宿の車に乗り込んで走ること5分ほど。温泉津の温泉街に到着。今回の旅の目的地である。

温泉津を今回の宿泊地としたのはSNS等で古い町並みが残っていることを知ったからであるが、噂に違わず数多くの素晴らしい建物が出迎えてくれた。

既に汗だくではあったものの、まだ気温も高い夏の夕暮れ時。一風呂浴びたところで、また汗まみれになるのが目に見えていたので、荷物だけ置いて散策に出た。

まず目に入ったのが、宿のはす向かいに建っていた半円形に飛び出したサロンが印象的な薬師湯。

装飾も見事な洋館の旧館(大正時代の建築)との取り合わせも面白い。

 



また戻ってきて入ろうと思っていたのだが、あまり深く考えることなく夕飯の時間を指定してしまったのと、町並みの素晴らしさでこの後の散策が長引いたために、肝心の風呂には入りそびれたので、再履修案件である。

なにせちょっとした路地でもこの雰囲気である。

潮の香りに誘われて海沿いまで出ると、凪いだ海に一隻の船が出港していくところであった。

このままだと汗だくのまま夕飯を食べる羽目になる時間という事で、宿へ戻っている途中で見かけたのがこちらの建物。「温泉津カド」というらしいが、角だけ看板建築といったその名の通り角にこだわった造り。

一見近年改修を受けたようにも見える1階のガラスにはやや波打ちがある事からすると、フロートガラスのない時代にこの大きな窓を作ったのだろうか。いずれにせよ”カド”以外も見どころのある建物である。

宿に戻って温泉に浸って背を流すと夕飯時。

飲み物は温泉津の酒蔵若林酒造の開春飲み比べセットを頼んでみた。

いつも旅行へ出ても泊まるのはビジネスホテルばかりだけれど、たまにはこういう宿に泊まるのも良いものである。

一晩明けて翌朝は5時半に起床。前日夕方に回り損ねた場所の探索へ。

まだ朝早いだけに出歩く人も少なく、落ち着いた温泉街の佇まいがいっそう強調されるようである。

神社へ上る階段を中腹まで登ると、赤い瓦屋根の並ぶ中国地方らしい町並みが眼下に広がっていた。

ひとしきり見終わったところで、折角温泉に来たのだから他の源泉にも浸かろうと、朝早くから営業している元湯を目指し、温泉街の中心部へ戻る。

朝の低い光線に街並みが輝く。

元湯は冒頭で出てきた薬師湯より古く、1300年以上前からあるとされているとか。湯温は高く、最も熱い湯舟は48℃。細身の私には、すぐにのぼせて無理そうという事で、ぬるめ(それでも40℃以上あった)に留めた。

宿に戻って朝食ののち、8時過ぎの特急に乗るべく、駅へと出発。

行きと同じく送迎もあったのだが、温泉街から駅までの道のりも散策しがいがありそうだったので、歩いていくことにした。

10分ほど歩いて温泉津駅に到着。ほどなくしてやってきた上りの特急「まつかぜ」に乗り込んだ。

 

山陰の旅(1)

先月中頃、所用で米子へ行く話があったものの結局立ち消えになってしまった。遊びでの用件ではなかったものの、ちょっと未練があり、会社の休業日に合わせて出かけることにした。

当初はサンライズ出雲で山陰入りも考えたものの空席(室)は無く、かと言って往復とも素直に伯備線経由は味気ない…。そんな中候補に挙がったのが大阪から鳥取まで「はまかぜ」で抜け、「おき」に乗り継いで、古い町並みの残る温泉津で一泊する案。はまかぜは乗ったことが無い列車だし、ディーゼル特急に合計6時間半揺られるのも悪くないかということで旅程が決まり、朝8時前に大阪駅を発つはまかぜ1号に乗り込んだ。

中播但線にはまだ明治時代の駅舎も残っていそうという事が確認できたので、今回スルーした区間も、また機を見て訪れたい所。

途中の和田山での停車中に遠目にではあるもののレンガ機関庫を観察。

山陰本線に入って豊岡付近で見かけたのはコウノトリなのか鷺なのか。

やがて列車は、トンネルの暗闇の間にまばゆい日本海を垣間見つつ、海に山が迫るような海岸線を走っていく。

勾配区間ではエンジンの唸りもひときわ大きくなるが、こういう列車には日本酒が似合う。本当は但馬の酒が良いのだろうが、車販はおろか停車時間中に調達できる売店もなく、自宅から持って行った澤の泉をちびちび飲むことにした。

車窓に目を奪われつつ乗っているうちに4時間が経って、終点鳥取到着。

昼食を済ませ、特急おきに乗り継ぎ、さらに西を目指す。

この日本海の風光明媚な風景の中で、C51の牽く客レを見られればな…などと思いつつ、振り子特急らしい威勢のいい走りに揺られ、この日の宿のある温泉津に到着した。

次回は温泉津での散策について書こうと思う。